特集レポート

【首都高の歴史】2007-07-26

首都高の歴史(1)
首都高はどうやって生まれたの?

 今では通勤やレジャーなど関東近郊の人間には当たり前の存在となった首都高速道路。でも、誰がなんのために作ったんだろう?そこで今回は、首都高の歴史の第1回目として、構想段階から環状線+8路線が開通するまでの流れを追ってみよう。

首都高の計画はなんと戦前からあった!?

 首都高速道路の構想は、大きく3つに分けられる。最初の構想は戦前の昭和13年、当時内務省都市計画東京地方委員会のメンバーだった山田正男氏(のちの第4代首都高速道路公団理事長)が立案している。同氏は「交通手段の中心が、近い将来鉄道から自動車に代わり、驚異的な発展をする」と予測。交通量増加への対策として高速道路網が必要と考えていた。驚くのは、当時の自動車保有台数はごく少なく、道路を走るクルマもまばらだった時代にこの構想が練られていたこと。さらに山田氏は、道路は高架にし、その下は店舗や事務所、倉庫などとして利用することなども想定していた。

 2つめは最初の構想から2年後の昭和15年、都心まで高速道路が入り込むニューヨークのハイウェイをモデルに、石川栄耀氏によって描かれてる。ネットワークは都心を中心とする環状放射型で、都心から半径40km圏内を30分以内で連絡させるという案。

 3つめは昭和24~26年頃、近藤謙三郎氏によって考えられたスカイウェイ構想。これは、渋谷、新宿、池袋、横浜、浦和、松戸、千葉方面へ向かう7つの放射線と、それらを小径環状と大径環状の2つの環状道路で結ぶという現在の首都高速道路に近いものだった。

計画議決、8路線開通に向けて動き出す

 近藤氏のスカイウェイ構想が立案された頃、日本経済は高度成長時代を迎え、戦後のベビーブームと相まって自動車の保有台数は増加の一途をたどっていた。東京都内だけでも毎年5万台近く増え続け、昭和33年には2つめの構想が練られた昭和15年頃と比べ、保有台数は7倍近くにもなっていたという。その結果、各地で渋滞が頻発。このまま右肩上がりで増え続ければ、昭和40年には交通マヒ状態になると予測されていた。まだクルマもまばらだった昭和13年当時、最初の構想を打ち立てた山田氏の予想が現実となってきた。

 このままでは交通マヒ状態になるのは明らか。そのためにも急ぎ開通が求められた首都高速道路計画が議決(一部保留)したのは、長島茂雄が巨人軍に入団した昭和33年のこと。当初の計画は、8本の放射路線と都心部の環状道路からなる総延長71.03kmの路線で、片道2車線、設計速度は60km/h。ちなみに高架下は、最初の構想を立案した山田氏のアイデアを取り入れて駐車場などに利用することも計画が盛り込まれていた。

 こうして渋滞解消に向けて首都高速道路の建設がついに始まった。しかし、ただでさえ急ピッチで進める必要があるうえに、ある一大国家イベントによって、それを上回るペースでの建設を求められることになった。そうそれは、東京オリンピック。

時間がない! 東京オリンピックがやってくる

 昭和33年に首都高速道路計画が議決されてから半年も経たない昭和34年5月、5年後の昭和39年に東京でオリンピックが開催されることが決定。中でも交通網の充実は大会運営の成否にかかわる重要な案件だったが、当時は羽田から代々木まで2時間以上かかったとか…。このままでは交通マヒを起こし、東京開催失敗の烙印を押されることは明白。

 これを受けて昭和35年12月、当初は8路線+環状線で計画していた首都高速道路でしたが、その中でも羽田方面に延びる1号線や代々木方面に延びる4号線など、特に整備を急ぐ路線を「オリンピック関連道路」とし、優先的に工事を進めることになった。

 しかし、そうは言っても開催までの期限は残り4年。その期間で30km以上もの高速道路を建設するのは不可能に思われていた。高速道路は必要、でも建設する時間がない。そんな状況に、当時東京都都市計画部長だった山田氏は「空中作戦」と呼ばれる手法に勝負をかける。これは道路用の用地を買収している時間がないことから、既存の道路や川などの上に道路を作るという方法だった。

 首都高というと、曲がりくねった道や高架が多いというイメージを持つ利用者も多いはず。それは極力公共用地を使用することを原則としていたからで、旧来の道路の上や河川上などに建設した高架構造は全体の70%以上にもなる。

 工期短縮の方法はそれだけにとどまらなかった。羽田トンネルなどは従来の工法では2年かかるところを日本で初めて沈埋函工法を採用し、1日でトンネルを作り上げるなど、当時の最先端技術を用いて工事を進めていた。開通後、当時アメリカの連邦道路局長だったレックス・ウィットンは「大都市の上を走る複雑な曲線道路は我々では作れない、グレイトだ!」とコメントしている。

8路線約71km、議決から9年でのスピード開通

 議決から約4年後の昭和37年12月、ついに1号羽田線(京橋~芝浦間の4.5km)が初めての首都高速道路として開通。その後ものべ130社、10万人の技術力を結集し、東京オリンピック開催が間近に迫った昭和39年10月1日にはオリンピック関連道路31.3kmを開通させた。これで当時日本の表玄関だった羽田空港と都心、さらには各種競技場や選手村のあった神宮外苑および代々木、新宿までが1本の高速道路で結ばることとなった。こうして開会式の9日前に開通したオリンピック関連道路は、大会期間中1日平均7万5000台が利用。700億円をかけた一大事業は、東京大会運営に大きく貢献した。

 余談になるが、当時の通行料金にも少し触れてみよう。来年から首都高の通行料金は距離別料金への移行が決まっているが、昭和37年の1号線開通当時の通行料金は普通車で50円。翌年には100円、さらに翌年には150円に値上がりしている。当時のそば1杯の値段は50円。ちなみに現在と同じ700円になったのは、リレハンメル冬季オリンピックが開催された平成6年のことだった。

 話を元に戻すと、無事東京オリンピックに間に合わせることはできたが、技術者はその余韻に浸る暇もなく建設に没頭していた。それはオリンピック関連道路以外の環状線や5号線などが開通していなかったからで、当初の計画どおり環状線+8路線が開通したのはそれから約3年後。世の中ではカラーテレビ、自動車、クーラーが「新三種の神器」と呼ばれ、グループサウンズが爆発的なヒットを飛ばしていた昭和42年7月のことだった。


首都高の歴史(4) ~ネットワークの充実に向けて~

首都高の歴史(3) ~愛されるシンボルの登場~

首都高の歴史(2) ~数々の路線が開通した高度成長期~

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