特集レポート

【首都高の歴史】2007-10-04

首都高の歴史(2)
~数々の路線が開通した高度成長期~

 前回の歴史では、首都高速道路の構想から環状線+8路線が開通するまでをお伝えしたが、今回はその後。首都高の高度成長期とも言える昭和40年代前半から60年代前半までの歴史を紐解いてみよう。

環状線+8路線開通時には、すでに延線の計画があった

 東京オリンピックに間に合わせ、昭和42年に当初の計画路線を開通させ、首都高の建設も一段落かと思えば、そうではない。慢性的な渋滞が起こっていた状況を鑑み、この頃すでに延線や新規路線の計画が進められていたのである。

 昭和40年代中期には、3号線、4号線、5号線、高速横浜羽田空港線の延線や、横浜高速1号線、湾岸線など新規路線の建設に着手している。中でも昭和46年12月に延線開通した3号線は東名高速道路と、昭和51年5月に延線開通した4号線は中央自動車道と接続。これまで都市部の一般道路の補完的性格だった首都高速道路は、他の高速道路と連結することで、都市間高速道路というカタチに大きく変貌を遂げていくのである。ちなみに5号線は昭和52年8月、横浜羽田線、1号線は昭和53年3月、湾岸線は昭和51年8月にそれぞれ延線、開通している。

景気の悪化や環境意識の高まりが大きな壁に

 建設着手から開通までを上記のようにまとめると、非常にスムーズに事が運んだように思える。しかし、4号線の延線開通まで10年近くかかったことからも分かるとおり、そう簡単に工事が進んだわけではない。なにせ都市の間を縫うように走っているのだから当然と言えば当然。昭和40年代は、とても浮き沈みの激しい時代で、景気や世論の影響を大きく受けたという。では何が大変だったのか?その辺りにも触れておきたい。

 昭和40年代前半と言えば、日本はまさに高度成長時代。人口の都市集中と産業の設備投資増大に伴い、土地の価格が高騰。そして昭和46年にはドルショック、同48年にはオイルショックが起こり、総需要抑制策によって、日本道路公団の事業もかなり抑えられた。特に地価高騰とオイルショックによる建設資材の品不足と価格の急騰が、首都高速道路の建設に大きな影響を与えたという。

 もう一つの壁が環境問題。この頃は、環境問題に対する住民の意識が高まってきた時期であり、首都高は都市部に建設されるため、沿道における環境問題は年を追って深刻化していた。近隣住民からの苦情は騒音、振動、大気汚染、電波障害、日照障害、落下物など多岐に渡っていたという。しかもこの頃は3号線が東名高速と、4号線が中央高速と接続された時期でもあり、首都高の交通量は激増し、渋滞や事故などが増えることで環境に対する問題意識がさらに高まっていくことになった。

現在の管制システムの先駆けが導入された

 これらの問題を踏まえて、昭和48年10月に渋滞や事故の軽減を目的に導入されたのが、交通管制二次システム。

 一次システムは昭和45年10月にスタートしているが、これは機器の性能確認と交通情報の収集が主であり、オンライン情報としてはまだ十分でなかったといわれている。

 一方、二次システムは、車両感知器を設置し(環状線では約300メートル間隔、放射線では約600メートル間隔)、そこから計測した交通量、速度、占有率などのデータを電子計算機で処理。5分間の移動平均値を用いて渋滞判定を行い、グラフィックパネルに表示。観測地点のクルマが時速40キロ超で走っていれば無表示、20~40キロは黄色、20キロ未満は赤で表示されるという現在の仕組みに近いものであった。

 ちなみにこの時、世はまさにオイルショック。トイレットペーパーパニックに陥っていた頃の話。今から35年前に考案されたシステムが、現在のシステムの先駆けとなったことを考えると、どれだけ先進的な仕組みだったかがよく分かる。

7年半で7つもの路線を開通、延線させた

 さて、昭和52年度末の段階で総延長が131.7キロとなり、他の高速道路との接続も進み、都市間高速道路となった首都高速道路。しかし、建設ラッシュは昭和60年代前半まで続く。この間に開通、延線した路線はなんと7路線。開通順に列挙すると、

■昭和55年2月:9号線開通

■昭和58年2月:湾岸線延線

■昭和59年2月:横浜羽田空港線延線

■昭和60年1月:6号線延線、足立三郷線開通

■昭和62年9月:葛飾川口線開通、葛飾江戸川線開通


 これだけの路線を延線、開通させるのにかかった年月は、わずか7年半。中でも、他の高速道路と連結した湾岸線(東関東自動車道)、足立三郷線(常磐自動車道)、葛飾川口線(東北自動車道)開通の効果は絶大で、昭和53年に開港した成田国際空港へのアクセスは飛躍的にアップし、昭和60年3月に開催された国際科学技術博覧会(つくば科学万博)にも大きく貢献したという。こうして総延長が200キロを超えた首都高速道路は、中央環状線の東側部分も完成させ、都市間交通の重要なネットワークを形成するに至ったのである。

首都高の建造物や工法は数々の賞を受賞

 ネットワーク形成に伴う、首都高の建設における技術や工法にも着目してみよう。建設着工以来、過去10年の技術の蓄積をもとに、次々とブラッシュアップさせて造り上げた建造物や工法は、数々の賞を受賞している。「首都高を撮る」にも登場した、かつしかハープ橋や横浜ベイブリッジなどもその一つで、この間(昭和40年代前半~60年代前半)に受賞した建造物や工法は以下の通り。

■昭和44年度
・土木学会田中賞(作品部門):両国JCT(吊構造の採用)

■昭和48年度
・土木学会田中賞(作品部門):高島平高架橋(SSM式移動吊支保工)

■昭和51年度
・天皇賜杯(銀杯):東京港トンネル(コンクリート構造の沈埋工法)
・土木学会技術賞:東京港トンネル(同上)

■昭和52年度
・土木学会田中賞(作品部門):蓮根歩道橋(景観に優れているため)

■昭和54年度
・プレストレストコンクリート技術協会作品賞:横浜市関連街路新山下橋
・土木学会田中賞(作品部門):9号線辰巳高架橋

■昭和56年度
・日本コンクリート工学協会技術賞:ピルツ・プレストレストコンクリート橋(湾岸線新木場)

■昭和58年度
・土木学会田中賞(作品部門):堀川筋高架橋(横浜羽田空港線)

■昭和60年度
・プレストレストコンクリート技術協会賞:足立三郷線浮塚高架橋(SUダンパーを用いた9径間連続PC箱桁橋)

■昭和61年度
・日本コンクリート工学協会技術賞:横浜ベイブリッジ(プレキャストフーチング施工)

・土木学会田中賞(作品部門):かつしかハープ橋(世界初のS字形曲線斜張橋)

■昭和62年度
・照明学会照明普及賞:かつしかハープ橋(同上)
・土木学会田中賞(作品部門)、技術賞、技術開発賞:葛飾川口線多径間連続高架橋(入谷高架橋、東本郷高架橋)


 これらの受賞からも分かる通り、首都高の建設には様々な最先端の技術や工法が盛り込まれているのである。普段何気なく走っている首都高も、技術や工法に目を向けてみれば、また少し違った見方ができ、そうして出来上がった道路がますます身近に感じられそうだ。


首都高の歴史(4) ~ネットワークの充実に向けて~

首都高の歴史(3) ~愛されるシンボルの登場~

首都高の歴史(1) ~首都高はどうやって生まれたの?~

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