特集レポート
首都高の歴史(4)
~ネットワークの充実に向けて~
前回お伝えしたのが、首都高のシンボルとも言える長大橋などが完成した平成初期。首都高の歴史最終回となる今回は、それ以降から現在に至るまでの歩みを追ってみよう。
建設ラッシュはとどまることを知らず
レインボーブリッジや横浜ベイブリッジなど、ランドマーク的存在の構造物が登場した平成初期には、すでにある程度のネットワーク網が完成していた。なぜなら他の高速道路との接続は完了し、その時期の路線開発はほとんどが既存路線の延線だったからに他ならない。当然それ以降はたいした路線開発もないだろうと思っていたのだが、蓋を開けてみれば意外にも首都高の建設ラッシュはその歩みを止めていなかったのである。
大きなところでは、大宮線と王子線の開通が挙げられる。大宮線は5号線と外環道が交差する美女木ジャンクションを起点に、北のさいたま市方面に延びる約8.0キロメートルの路線で、平成10年5月に開通。これにより、新大宮バイパスの慢性的な渋滞が緩和されたほか、平成16年5月には南西部の2.3キロメートルも開通し、さいたまスーパーアリーナなどの商業施設が多く存在する「さいたま新都心」へのアクセスも飛躍的に向上した。
王子線は中央環状線(C2)の一部として、板橋(5号)と足立(S1)を結ぶ7.1キロメートルの路線。平成14年のクリスマスの開通は今でも記憶に新しいところだ。この王子線の開通により、ルート選択の幅は大幅に向上した。千葉方面からは都心環状線(C1)に入ることなく5号線にアクセスすることが可能となったほか、埼玉方面から都内に行く時などは、渋滞がある場合など5号線経由で都内に入るといったルートの変更が可能になった。
また、湾岸線の完成も大きなトピックと言えるだろう。高速湾岸線は東京湾の外周に沿って、横須賀から横浜、川崎、東京、船橋、千葉、木更津を経て館山方面に至る東京湾岸道路の一部。すでに市川から横浜ベイブリッジを渡った先の本牧ジャンクションまでは開通していたが、その先の残り14.6キロメートルを平成13年10月に完成させている。これにより工場や倉庫などの多い沿岸部の利便性がさらに向上した。
平成初期以上に延長距離は延びていた
上記以外にもアクアラインや湾岸線と川崎ジャンクションで接続する川崎縦貫線も開通しており、それらを開通順に並べるとこのようになる。
■平成10年5月:大宮線開通
さいたま市中央区円阿弥3丁目~戸田市美女木3丁目までの8.0キロメートル
■平成11年7月:湾岸線延線(5期)
横浜市金沢区並木3丁目~横浜市中区本牧ふ頭までの3.5キロメートル
横浜市中区千鳥町~横浜市中区本牧ふ頭までの4.1キロメートル
■平成13年10月:湾岸線延線(5期)
横浜市磯子区杉田5丁目~横浜市中区千鳥町までの7.0キロメートル
■平成14年4月:川崎縦貫線開通
川崎市川崎区殿町3丁目~川崎市川崎区浮
島町までの3.5キロメートル
■平成14年12月:王子線開通
板橋区板橋2丁目~足立区江北2丁目までの7.1キロメートル
■平成16年5月:大宮線(南西部)開通
さいたま市中央区新都心~さいたま市中央区本町2丁目までの2.3キロメートル
これらの総延長は35.5キロメートル。平成初期がほぼ同じくらいの期間で29キロメートルだったことを考えれば、その歩みはまったく衰えていないどころか、むしろスピードを増している感すらある。近年は路線の開通や延線があったというイメージが薄いかもしれないが、実は歴史を紐解いてみればこれだけの路線が新たに開通していたのである。
ETCが運用されたのは6年以上前のこと
さて、首都高の歴史といえば、やはり路線の開発がメイン。しかし、それ以外にも大きく変わったことがある。それは料金の支払い方法だ。今や利用率が70パーセント近くにもなった「ETC(Electronic Toll Collection system)ノンストップ自動料金支払いシステム」がそれである。ETCはいちいち料金所で止まる必要がなく、時間帯などによっては割引されるシステムがあるなど、私たちユーザーにとって非常にメリットが大きい。しかも料金所渋滞が解消され目的地への時間が短縮されるほか、料金収受における管理コストの削減にもつながっている。
だからこそこれだけ普及したのだろうが、ETCが初めて運用されたのはもう6年以上前のこと。正直、そんなに前から、と驚いてしまうが、前述の大宮線や湾岸線など9箇所の料金所で平成12年4月から試行運用を開始している。その後、平成13年3月から試行運用した9箇所を含む11の料金所で本格運用を開始し、平成13年度末には73の料金所で、そして平成15年12月には首都高の全162の料金所(当時)で運用が開始されている。
来年からは走った距離によって料金が決まる距離別料金制度でさらに進化するが、料金の支払い方法が大きく生まれ変わったのも首都高の歴史においては大きなポイントと言えるだろう。
公団から株式会社に体制変更
生まれ変わったと言えば、首都高自体も大きく変貌を遂げている。平成17年10月、「首都高速道路公団」から「首都高速道路株式会社」という名称に変わり、民営化されている。その結果なのか、今月22日には中央環状新宿線(5号池袋線~4号新宿線)が開通し、平成21年度内には3号~4号間も開通する予定とその動きは非常に活発。また、平成25年度の開通を目指すという中央環状品川線の整備にも着手しており、これらが開通すれば、首都高の渋滞はほぼ解消される予定というから期待がもてる。
このように、公団から株式会社になっても、さらなるネットワーク網の充実を目指して、首都高は今後も歩みを止めることなく進んでいくのだろう。
■まとめ
首都高の生い立ちから現在に至るまでを4回にまとめた首都高の歴史。今一度振り返ってみて思うのは、あの狭い都市の中によくぞこれほどまでの建造物をつくり上げたということだ。そしてそれを実現させたのが、日本の高いレベルの技術があったからこそという点も、何か日本人として誇らしく感じる部分がある。その技術を学びに海外からは数々の研究者が首都高の門を叩くという。そういった点ではしたことからも、首都高はある意味高度成長時代からの日本の土木や建築技術の結晶ともいえるのではないだろうか。もちろんいまだ解消されない渋滞など不満点があることも事実。その問題が解消され、いつでも快適にドライブできる首都高の完成が近い将来であることを期待したい。
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://smartshimbun.jp/column/22/trackback.html



